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伏⾒城遺構 ⾎天井

⾎天井

伏⾒城遺構⾎天井

本堂の⾎天井は、伏⾒桃⼭城の遺構です。
慶⻑5年7⽉(1600年)徳川家康の忠⾂・⿃ 居彦右衛⾨元忠⼀党1800⼈が⽯⽥三成の軍 勢と交戦し討死、残る380余⼈が⾃刃して相 果てたときの恨跡です。

「三河武⼠の鑑」⿃居元忠

⿃居元忠は「三河武⼠の鑑」と称される武将です。
君主であった徳川家康とのエピソードが今も伝えられています。
慶⻑5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐に向けて、
諸将を率いて出兵、その際、元忠は伏⾒城を預かり守り抜く役⽬を与えられました。

会津へと向かう直前、家康は伏⾒城に宿泊して元忠と酒を酌み交わします。
「我は⼿勢不⾜のため伏⾒に残す⼈数は三千だけになる。汝には苦労をかける」と家康が述べると、元忠は答えました。「将来、殿が 天下を取るには⼀⼈でも多くの家⾂が必要でございます。もし、⼤坂⽅の⼤軍が包囲した時は城に⽕をかけ討死するほかありません。
多くをこの城に残すことは無駄であるため、⼀⼈でも多くの家⾂を城からお連れ下さい」と⾔いました。家康はその⾔葉に感激、深夜 まで酒を酌み交わして別れたと伝えられているのです。

君主への忠義のため、また⾃らの誇りのため、そして⼤切な⼈々を守るために戦った多くの武⼠たち。
そうした⼈々をこの地で供養し、その物語をこの地で語り継いでいます。

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